舞台【2019年】新国立劇場「毛皮のマリー」観劇レポ
こんにちは、舞台好きデザイラストレーターのいかわ(@mei_le20)です。
先週観劇した美輪明宏さん主演「毛皮のマリー」を観劇したので、遅ればせながらですが観劇レポを残しておきます。
中劇場アクセス案内はこちら⇩
新国立劇場 中劇場
2019「毛皮のマリー」
脚本:寺山修司
演出美術:美輪明宏
念願かなって…
一生に一度は絶対観たい作品があった。
美輪明宏さんの舞台。
しかも今回「毛皮のマリー」なのだ、、、
今月は観劇しまくりだったのでちょっと悩んでしまったけれど、
でも行って良かった…!!
香り立つ場内
場内に入ると、もうロビーからお香の香りが立ち込めて、「これが、美輪さんの世界…!」とおののいた。
始まる前から、作品ははじまっているのだなと作品の魅せ方のひとつをみた気がした。
母と子の物語
美輪さんは、マリーと欣也の関係は寺山氏と母はつさんのことだということに辿り着かれた。
そして、実際そうなのだ。
マリーは自身のことを「お母さん」と欣也に呼ばせる。
外の世界を知らない欣也は、マリーの外出中に外へと飛び出していくが、ぼろぼろになって帰ってくる
自分の元へ戻ってきた欣也に同じ道を辿らせようとするが、「すまない」と謝罪をするマリー。
息子を愛す気持ちが束縛につながり、そのことをマリーは「どうすることもできない」ことだと思い、過去の自分に囚われているように見えた。
虚飾の世界で自分自身を安心させるものを並べ生きていくさまは、檻の中の獣、籠の中の鳥のような…。
救いようのない物悲しさがあるが、パンフレット内で美輪さんが解釈されているセリフでさらに解釈すると、
世界は何でできているか考えたことある?水夫さん。表面はたいてい、みんなウソでできているのよ……牛肉の缶詰のレッテルだけの話じゃない、人生っていうのはみんなそう!表面はウソ、だけど中はホント。中はホント、と思うには、表が嘘だと言わなきゃならない。ね、そうでしょう?
…ということは、
物置場のような雑然とした部屋をきらびやかに飾り立て、女物の洋服をきれいにまとう姿は「ウソ」。
では、「ホント」は?
と問うと、それはマリーの欣也を思う気持ち、なのでは、、、と思い至る。
場所が変われば…
かつてはアートシアター新宿文化という映画館で初演は行われたそうだ。
今回のように舞台を上演するべき場所で上演し、それを観劇することも楽しいが、映画館内で上演された作品は、その場所でしか出せないエネルギーや退廃的な雰囲気がより表現されていたのではないかと、想像してみる。
さいごに
きっと、一度観劇しただけでは理解できていないセリフなどがあるので、ぜひ脚本を読んでみよう、と静かに決めるほど、それこそ表のてんやわんやのから騒ぎだけをみていては分からない点がたくさんあるな、と思った。
それでも、しっかり美輪明宏さん主演の「毛皮のマリー」を観られて良かったなとほっとした。
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2019年舞台新国立劇場「かもめ」観劇レポと考察
こんにちは、舞台好きデザイラストレーターのいかわ(@mei_le20)です。
とても好きな作品であるチェーホフの「かもめ」を観劇に行ってきました。
アクセス案内はこちら⇩
新国立劇場 小劇場
2019「かもめ」
作:アントン・チェーホフ
英語台本:トム・ストッパード
翻訳:小川絵梨子
演出:鈴木裕美
全キャストフルオーディション企画
パンフレット内で翻訳にあたられた小川絵梨子さんが、鈴木裕美さんとの対談で
「単なる『企画』ではなく、あくまでも作品のために(オーディションを)やる、ということを伝えていきたいですね。」
と語られていた。
「かもめ」のために集められた人々、と考えるとより作品に集中できるような気がした。
興行的なことはわからないが、少なからず「この人が出演しているから観る」ということをしているので、話題性や「スター」を起用する理由も納得できる。
また、キャストが決定される裏にどんな思惑が働いているのかなんて考えたことがなかったので「フルオーディション」が話題性となっていることに不思議な感じがした。
しかし、単純に上演される作品のために人を配置していく、という場合も健全というか、学生演劇のオーディションを思い出し、あって良いはずだなとも思えた。
脚本にただしい舞台
これまでに宝塚版と劇団地点の「かもめ」を見た。
いづれも、それぞれの「らしさ」「個性」があるので、省略や脚色のない「かもめ」は初見となるのだが、本当に、文庫で読んだ脚本の通り上演されるとこんな感じなのだなぁ、と「ただしいかもめ」を見た気がした。
快活なニーナ
印象的だった人物として、ニーナが挙げられる。
わたしの中のニーナは、純真で、かわいい野心のある線の細いお嬢さんというイメージだったので、とても楽しそうに賑やかに笑う姿は新鮮だった。
「静」というより「軽やかな動」という具合に。
コンスタンティンとアルカージナ
若い頃にちやほやされた母親は、いつまででも若くて(若いと思い込んでいて)子供にとってはちょっと扱いにくい、のかもしれない。
自尊心が高い者同士、反発してしまうさまが見ていておかしいような、悲しいような…
時にヒステリー、そうかと思えば過保護すぎる母親アルカージナを、朝海ひかるさんが演じられていた。
息子を見ているようで、現実の彼は見えていないような盲目さ、ちょっとケチなところはチャーミングに。
わたしの中のアルカージナが存在していて、びっくり!
びっくりだし、しっくり!
落ち着きの医師ドールン
ドールンもまた、わたしのイメージぴったりでリアルに存在していた。
天宮良さんという方が演じられており、低音に響く声が紳士らしさを際立たせていた。4幕ラストのあのセリフもごく自然で、しかし注目したくなるような様子を与えながら発せられていた。
「かもめ」は喜劇というけれど…
作者のチェーホフは、この作品を喜劇といっている。
2〜3幕はみんなそれぞれ抱える想いがあって、先走ってしまったり溢れる想いを処理しきれなくなり、ある意味「暴走」してしまう。
え、ちょっと待って、冷静になろ??
…と、肩をぽんと叩いてあげたくなる。
各々の想いは、すれ違ってちぐはぐな物語にもみえる。
その洋服のボタンを掛け違えたかのような違和感をわかりやすく示してくださっていて、「ここ、ちょっと面白いでしょう?」と提示してくれているような雰囲気が良かった。
文庫で読んでいた時に感じたおかしさの答合わせをしているようで、安心した。
でも、やっぱり
4幕はとても切ない。
天気も悪く、照明も薄暗でいかにも「これからちょっと良くないこと起こりますよ…」といわれているような感じがする。
しかも、あんなにキラキラしていたニーナが疲れ果てていて、泣いているんだもの…。彼女は現実をしっかり捉えるようになっていて、楽しかったあの頃、女優を夢見たあの頃を懐かしそうに、遠い過去として振り返る。
それを、絶望した表情で見守るコンスタンティン。
一人取り残されてしまったかのように佇む彼と、トリゴーリンの存在を気にする彼女は、やっぱり最後まですれ違っていて、悲しさが助長される。
銃声の後、ラストのドールンのセリフが近づくにつれ、どんな魅せ方をするのかと息をのんで、その時を待った。
どんどん伏線が回収されていく小説を読んでいるときの感覚と似ている。
そわそわと待ち受けていたラストは、球体の何かを転がっていかないようにそっと机に置いていくようなさり気なさで終わった。
あっけないとは違う、これもただしい終わり方、のような…
コンスタンティンは死んだのか…?
舞台外で銃声が響き、「コンスタンティンの死」は表現されている。
ほんとうに死んでしまったのかはわからないが、岩波文庫の解説で
「後期のチェーホフ劇の特徴だが、事件は舞台外で起こり、事件の痕跡はなんら舞台から伝えられない」
と、訳者の浦 雅春さんがおっしゃていた。
これははるか昔上演されていたギリシャ悲劇と重なるところがある。
ギリシャ悲劇でも、人の死や不幸はいつも舞台外で起こる。
舞台は神聖な場所であるので、女性も立つことが許されなかったし、不幸なことを舞台上では暗黙の了解で避けていたそうだ。
ギリシャ悲劇とチェーホフの相関関係は、専門ではないので分からないが「想像力」が試されているのか、人の「想像力」を信じているからこそチェーホフはこんな結末にしたのか、深く考えてみたくなるテーマだ。
(ロビー販売されていた集英社文庫版はどうかわからないが、↑の岩波版はチェーホフの生い立ちやこの作品自体のことなど、解説が充実しているのでおすすめです。)
さいごに
今回座っていた座席が後方だったので、舞台がある意味箱のように感じられ、囲われた建物の中の人々たちという視点で見ることができたからこそ、
これはフィクション・虚構であるという見方がよりできたのでは、と思う。
また、観客席の前方には、床に人工芝生が敷き詰められており、舞台の世界が現実のわたしたちにまで迫っていて、境界があいまいになっているところもよかった。
かもめ (集英社文庫) [ アントーン・パーヴロヴィチ・チェーホフ ]
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新国立劇場 アクセスと周辺お茶スポット
こんにちは
新国立劇場 中劇場・小劇場へのアクセスやお茶できそうな周辺情報などをご紹介します^^
アクセス方法
【住所】
- 〒151-0071 東京都渋谷区本町1丁目1番1号
- 京王新線 初台駅 中央口直結
京王新線の3番ホームへ降り、前方に進んでいくと、京王新線4番ホームへ続く通路が見えてきます。
初台駅へ着いたら、中央改札へ出ます。
(東口などそのほかの出口に出てしまったら、改札で駅の方に訪ねてください^^)
改札を出た後は、右手へ進んでいくと新国立劇場の地下直結通路にたどり着きます。
中劇場へ
エスカレーターを上り地上へと出たら、左手が新国立劇場の入口となります。
中へ入って行きましょう!
直進すると、階段が見えてくるので登った先が中劇場となります。
お疲れさまでした!
建物内
中劇場チケットもぎり前に、荷物を預けるクロークがあります。
上着や、遠方から来ている方は荷物などを預けられます!
そのほか、レストランや近くのコンビニで購入したものを食べられる机と椅子もたくさん配置されていたので、早めに来てお昼を食べてゆっくりすることもできそうです。
中劇場(ロビー)
ロビーでは、ドリンクが注文できるカウンターがあります。
お手洗いは、女性用が多めで、男性用は二階にあったかな(うろ覚えです、、)
小劇場へ
エスカレーターの前を通り過ぎ、池?の先へ歩いて行き、右手奥に小劇場の入口があります。
建物内
小劇場も、チケットもぎりの前にクロークがあるので、荷物などを預けておくことが出来ます。
ロビー
中劇場同様、ドリンクが注文できるバーや食事などができる机と椅子があります。
周辺お茶スポット
地下から、中劇場へ向かうためのエスカレーターを上がり、くるりと振り返り一本道路を挟んだ先に、コンビニとドトール、カフェがあります。
いずれにも5分もあれば到着できるので、次の公演までの待ち時間などに利用してみてはいかがでしょうか??(*´・v・`)
私は「カフェ・ド・ルラーシュ」さんでケーキセットをいただきました^^
(こちらはパソコンの使用が禁止とされているので、何か作業したい方はご遠慮を…!)
楽しい観劇ライフを!!
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はじめてのカフェに一人で入る「オトナ」の正体
知らない土地で、ちいさなカフェを見つける。
たたずまいお洒落で、きっとおいしいケーキセットでもあるのだろう。
…と思いながら、店内を様子見してするーっと通り過ぎる。
あ、通り過ぎちゃった。
立ち止まって、回れ右。
今度はゆっくり、歩幅小さくカフェに近づく。
このとき、店の外にメニュー看板が立っていると非常にありがたい。
入りたい気持ちしかないが、立ち止まって逡巡するフリができる。
その間にチラと店内を再びのぞく。
意を決して扉に手をかけ、取り付けられているベルがチリンチリンと鳴った。店の人が奥からやってきて、「1名さまですか」という。
わたしは控えめに人差し指を立てて、一人であることを示す。
席に通され、メニューが渡された。
思ったとおり、おいしそうなケーキセットがあり、しばし悩む。
サンドイッチにも目移りしたがケーキセットにしぼり4つのケーキからどれにしようか悩んでいると、
混雑する時間なのか、わたしの悩みタイムがあまりにも長かったのか、呼んでいないけど店員さんがやってきた。
とまどいを隠しながら
「チョコレートケーキで」
と伝えた。
ふう、と一息つく。
それほど広くない店内を眺め、音楽、照明、開業当初と思われる写真、その雰囲気をじっくりと味わい、ほくそ笑んだ。
こわくない、こわくない。
ひとりで知らないカフェに入ると、いつもこんなだ。
知らないカフェにするりと入っていけるのがオトナと思っていた中学生のわたし。
オトナの真っ只中というのにこのありさまだが、無事店内にすべりこみ注文を終えると、まるで自分が秘密機関のスパイにでもなったかのような気分になる。
きょろきょろと店内を見回し、様子をうかがい心の中で「ミッション・コンプリーッ」とつぶやく。
落ち着くことはできないが、わくわくとそわそわで別の楽しさがある。
しばらくすると、セットで注文した紅茶が運ばれ、店員さんがポットから一杯分注いでくれた。
アールグレイに少しのレモンの香りがする。
すうっと鼻で香りを吸って「んはーっ」と吐き出す。少量、口に含むと、体内の臓器が徐々にあたたまるのがわかった。
ケーキも運ばれ、食べるごとに増えればいいのにと思いながらフォークでつつく。
大満足なのは言わずもがな。
二杯目の紅茶を注ぎ、ガラスのポットが空になったのを、店員さんが目ざとく発見し、カウンターに消えゆく前に、すっと下げていった。
もしこの「ミッション」に報告書なるものが存在していたら、「店員のすばやさ最上級」とでも書いておくだろう。
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母親について考える。お互い心地よい距離感とは
今月は母親の誕生日がある。
久々にちゃんとした手紙を書いた。
なぜか知らないけど、号泣しながら書いた。
自分が怖すぎる。
家族のことを考えると、しばしば視界がぼやける。
そのうち鼻がつまる。
「いつか」のために買っておいたかわいい便箋が役に立った。
字は相変わらず汚くて、曲がったりふにゃふにゃしている。
…これは照れ隠し、と捉えてほしい。
「ありがとう」とか直接言ったことはない。
そういうことは言えないのだ。
だって、気恥ずかしいじゃん。
「いつまででも親がいると思ったら大間違いだよ」
幼い頃からずっとずっとずっと言われていることの意味をハタチを過ぎてからようやく「ちゃんと」わかるようになってきて、たまには伝えておかないとな。と。
そんな気持ちで筆、ならぬボールペンをとった次第。
お笑い芸人ピースの又吉さんが、何かのエッセイか対談で
「親は子を無条件で理解してくれるものだと思っていたけど、噛み合わなかったり意外とわかって欲しい時にわかってもらえない」というようなことを言っていた。
あぁ、そういうものなんだなぁ、、、
しみじみと、過去を薄ぼんやり振り返りながらそれが普通なのか、と安心した。
そう。安心。
お互い分かり合えるところだけをすり合わして、何か違うぞ、と思うことは「そうなんだぁ」「ふーん」くらいがちょうどいい。
その代わり、やるべきことは卒なくこなしておくのがポイント。
どんなことでも、距離感って大事。
四六時中、顔を合わせていたり同じ空間にいるのは、私にとっては息が詰まる。
物理的に距離を取り、友人と遊ぶ約束をするかのように連絡を取って出掛けて、また明日会うような気軽さでさらっと手を振って、さようなら。
今はこれが心地いい。
そして、ありがたみを感じるのだ。
はっぴー・ばーすでい。
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北翔海莉さん晴れやかに好演!明治座「ふたり阿国」観劇レポ
こんにちは。
デザイラストレーターのいかわです。
現在(2019/03/29~15まで)明治座で上演している、元星組トップスター北翔海莉さん出演ミュージカル「ふたり阿国」を観劇したので観劇レポと明治座案内をお届けします(^^)
簡単にあらすじ
時代は安土桃山時代。
皆川博子さん「二人阿国」を原作として、民衆歌舞伎の祖といわれる出雲阿国と阿国に憧れながらもその座につきたいと野心を燃やすのちに「二代目おくに」を名乗るお丹の物語。
阿国を北翔海莉さん、お丹をAKBの峯岸みなみさんが演じられていた。
ゴスペル・歌謡曲・ラップ・ブルース…etc様々な音楽が織りなす華やかで力強いミュージカル。
◉原作
北翔さんの魅力たっぷり!
北翔海莉さんといえば、宝塚時代から歌唱・お芝居・ダンス・踊り・笑いのセンスと全方向に定評のある役者さん。
今回もそんな芸達者な彼女のパワーが炸裂しており、歌、踊り、殺陣と非常に見応えのある作品となっていた。
客席から阿国一座がぞろりと登場し次々に舞台へあがり最後を飾る、出雲阿国。
パッと照明が当たる。
物語の歯車がゆっくりと動き出すように歌いだし、わたしたちを誘う。
ライトの光によって輝いているのか、彼女が根源となって輝いているのか分からなくなるほど、いきいきと歌い舞台を舞う。
その他、宝塚OGの桜一花さん、鳳翔大さん、羽咲まなさんも出演しており、宝塚時代舞台を観ていた者としては嬉しいかぎりのご出演。
鳳翔大さんはラスト、ぐぐぐっとくる殺陣のシーンもあるので、ファンの方は必見。めちゃくちゃかっこいいですよ~
様々な音楽ジャンルが自然と混ざり合い、雰囲気は宝塚のコミカルな日本物のような様相。
盛り上がる場面は客席で手拍子も鳴り、気負わず観劇することができた。
もうひとりのおくに
佐渡の阿国の峯岸みなみさんは、まだまだ舞台の経験が浅いらしく、あどけない台詞回しに危うさが見られたが、伸びしろともとれるし、その未完成さが「お丹」とシンクロしてリアルさを滲ませていた。
わたしの注目ポイント
お丹の姉貴分、よき理解者であるおふめ(雅原慶さん)の妊娠が発覚する。
しかし、阿国一座の一員になった今、「子供ができたらおろせ」という掟に従わなければならない。
当然、彼女は子供を生みたい。
お丹に相談するおふめだが、その様子を阿国は目ざとく捉え、毒(おそらく)をまぜた飲みものをおふめに手渡す。
「それは何?何かのくすり?」と無邪気に尋ねるお丹に「子どもは知らなくていいことだよ」と冷たくあしらう。
口に含む様子をじっとりとした視線で見届ける阿国のその表情・視線にぜひ注目してみてほしいですね!
不安定な世の中で芸が生き残る道を第一に考え、そのためにはどんな犠牲もいとわない。
そんな強い意志と決意が感じられる徹底ぶりと冷たさ。必要不可欠な冷酷さが垣間見れるぞわりとする一瞬です。
お見逃しなく…!
【場内が明るくなるまで】見どころ満載
終演後の舞台挨拶では、北翔さんの役を離れたふにゃっとしたお顔も見ることができ、しんみりとした気持ちを持ち帰らず帰宅することができた。
そして、アドリブ?!と思わせるあの人のびっくりと爆笑な場面も…笑
ラストの北翔さんの「まったね~!」を聞いて、笑顔でお帰りください!!\(^o^)/
パンフ購入するとバックももらえます~!嬉しいセット(^^)
明治座案内
◆アクセス
都営地下鉄
都営新宿線 浜町駅 A2番出口すぐ(2・3分)
(出口出たら右後ろ方向に位置しています)
都営浅草線 人形町駅A3・4番出口 清洲橋通り方面へ徒歩7分
※そのほか東京メトロでのルートもありますが、詳しくは公式HPへ。
だれでも予約可能!幕間の食事
事前に予約をすれば幕間の30分で食事をすることができます。
4階の食堂で用意されたお弁当をいただきました…!
とてもとてもおいしかったですが、たった今観た作品の感想を話しているとあっという間に30分経ってしまい少々急ぎ足で食べることに…😅
もっと味わいたかった~!
そのほか、3階にはお弁当の売店があるそうで、自席で食べることもできるみたいです。
1階の喫茶「花やぐら」では軽食や甘味などが開演前から楽しめます(^^)
◉公式HPご予約はこちら
見ているだけでも楽しい!2Fの売店
手土産にもピッタリな人形焼きやドリンク、そのほか様々なおいしいものやお土産屋さんが並び、開演前にじっくりと見て回りたいところです。
とくにおすすめは大粒甘納豆が食べられる、「まめ屋」さんの甘納豆と豆菓子。
やさしい味で食べだしたら止まりませんよ~
※夜の部での観劇だと、終演後にはお店はしまってしまうので、気になるものは開演前に購入がおすすめです!
新動く緞帳!チームラボとのコラボ
2019/4/11よりお披露目された新緞帳も見どころですね。開場から開演10分前まで観られるので、じっくりと見て幕の中の人々の息遣いを感じてみては。
最後に
今回は、あまりゆっくり売店や食事を楽しめなかったので、次回明治座に観劇に行く際は、もっと余裕を持って到着できるようにしようと思いました。
観劇、食事、出店と普段の生活を離れた特別な時間を楽しめる空間でした😄
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桜庭一樹の「荒野」を読んで思うこと。恋とはなにか?と聞かれたら…
読書が苦手。最後まで読んだことがない。
そんな子に、何か読みやすいのない?、と聞かれたら…(積極的に聞かれたい)
まずは桜庭一樹さんの「荒野」をすすめてみる。
想定年齢は小学校高学年から高校生。
そんなあなたに(でなくても)読んでみてほしい。
ある装丁家さんがいつの日かの、雑誌「ダ・ヴィンチ」で彼女の作品群を「不道徳的」と評していて言い得て妙だなと膝を打った。
その「王道」じゃない歪みが中高生の頃には一番近くて、心地よくて信頼できる。
主人公は、山野内 荒野ちゃん。
中学の入学式から物語はゆっくりと動き出す。
彼女は、特殊な環境と周りの人間に翻弄されながら、ゆれてゆれて頼りなさげな姿を見せるが、
その実、気づけば自分の頭で考えて歩むことができる女の子になっているのである。
彼女は変わることを恐れる。
時間よ止まれ。
できるならば、わたしたちをこれ以上変えないで。
荒野 (文春文庫)
わたしがこの作品にはじめて出会ったのは、高校一年生だった。
高校の図書館で借りて、返却して、また気になってもう一度借りた。
荒野ちゃんと同様、その頃のわたしは変化が怖い人間だった。心地いい友だちと永遠とも思える教室での日々がこの先ずっと続けばラクなのに。なんて。
でも現実は気づかないところでやっぱり進んでいるし、わたしは観念するしかないと寂しい気持ちでいた。
そんなときの、「荒野」である。
身近な友だちがひとり増えたような気持ちになるくらい、彼女は平凡でわたしととても近いように感じられた。
大学で、西洋美術を教えてくれた教授はこんなことを言った。
「カニグズバーグとかジャック・ケルアックとか、ある程度年齢を重ねたときに読んだから、あまり物語に入り込むことなく俯瞰して読んじゃった。もっと若い時に読んでいれば違う感想を抱いたかも知れない」
時間は取り戻せない。
「荒野」を読んで出会った感情や、感じた疑問・人物への共感。
すべてを忘れたくないと思う。
高校生の自分でしか感じられなかった感情を、忘れたくないと願う。
あのときの感情を思い返すことはできても、新鮮に出会うことは二度とない。
これが、今のわたしが「荒野」を読んで思うこと。
ところで、「恋」とは何だと思いますか?
恋、、鯉、来い、コイ、こい……
恋とは、「独占欲」「相手を知りたいと思うこと」「愛の前段階」…??
平凡で静かな荒野ちゃんは、ひとりの男の子と出会い、警戒しつつも気になる存在となる。
彼は、神無月悠也。名前からもう、いけめん。
中学一年というのに、どこか大人びて文庫片手にジャズなんか聞いている。
そんな彼が 「恋とは…」と頭を悩ます彼女の疑問にぼそりとつぶやく。
「……恋って」
あぁ、そんな見方もあるなぁ。
言われればストンと腑に落ちるが、高校生のわたしにはその言葉はちょっと意外に感じられた。
割と冒頭に出てくるエピソードなので、ぜひ一度手にとって一読してみては。
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簡単そうで難しいこと
簡単そうで難しいこと
それは
買わなくてもいいけど買っておいたほうが後々ラクな買いもの。
何が難しいかというと、着替え。
なかなか着替えられない。
とくに、真冬や肌寒い日もある春。
服が冷たいのが、いけない。
冷たい空気に立ち向かうことができず、体温でなじんでいるパジャマが脱げずにいる。
暖房器具の前に服をおき、しばらくあたためて意を決して服を脱ぐ。外に出る。
そんなことが、とてもとても遠い動作のように感じられて、なかなか気持ちも体も動かない。
こんなとき、私は自分で自分に問いかける。
「も、うすぐ、行ける?13時になったら行く?どうする?」
そんなあいまいに「どうする?」なんて聞いちゃうものだから
「んんー、どうしようねぇ…」
となってしまうのだ。
重い腰は椅子から上がらない。
これが、今使ってるものでトイレットペーパーが最後!ともなれば、寒かろうが難しかろうが「行く」一択しかない。さっさと行って帰ることができる。
急を要しないけれど、買っておいたほうがよいものが曲者だ。
もろもろの洗剤の替え、ごま油、2、3日後にはなくなる予定のたまご。
(たまごは毎日かかさず一個は摂取する)
こういうものはなんでも、できるときにやっておくのが吉であるとわかっている。…だが、わかっているけどできないというのも、わかっている。
結局、岩より重い腰はたいてい日が沈んでから動き出す。
外は薄暗くなり、空気は冷たくなる。
自ら過酷な状況に追い込むスタイル。
やっとの思いで着替えを終わりリュックを背負っていざ、外へ。
瞬間は、さむい。
でも、5分もすれば身体はあたたまり足取りも軽くなる。
座っている時よりもたくさん息が吸えるし(姿勢が悪いから)なんだか頭もすっきりする。
あぁ、かるい。
全部、かるい。かんたん。清々しい。
外の空気にふれながら、狭い部屋でうずくまるように座っていた小さい自分を思い出して、
あれは、息が詰まるわな…
と、毎回思うのだ。
「もっとはやく、着替えればよかったのに…」でも、
いつまでたっても、簡単そうで難しい。
応援ぽちっとありがとうございます(^^)↓↓
選択をして、まちがったなと思った時に思い出す小説の一節。
日々、小さな選択を自然にこなしている。
すみやかに、気づかないうちに。
昔イギリスのサイエンス(SF?)系のドラマに選択できなかった人生を体験する女の子の話があった。
満員必至な電車を待つホームに佇み、息が吸える車両をぼんやり考え読みがハズれる。
エスカレーターかエレベーターか。
コンビニスイーツを買うか否か。
まだまだドラえもんの便利道具が出る気配はなさそうだから、もう一つの人生なんて生きられない。
一個ずつ、選択するしか術はないんだなぁ。
ごめんね。電気屋のお兄さん。
わたしにはポケットWi-Fiは最適・快適ではなかったんだよ……。
4時間かけてじっくりコトコト「買う気」を熟成させられ一抹の不安をいだきながら契約してみたけど、なんかちょっと、違いました。
その場で言われたことを咀嚼して理解するまでがとても長い。
すべて「宿題」にしたい性質だ。
一個ずつ確実に「わかった」を積み重ねないと危険信号が鳴り響く。
…ってわかってるのにね。
でも、これを選択したのも自分。
しかしわたしは「失敗」とか「後悔」ということばが苦手。
そんな重い二字熟語を自分に浴びせても余計落ち込むだけだから。
こんなときは、ふんわーり、「あぁ、ちょっとちがったなぁ…」とやんわーり受け止める。受け止めるというか、「あ、そういうことねー。オッケー。りょうかーい」と、友人にラインの返信をするフランクさでさらりと返す。
だれに?
起こった出来事に。
結果として後日、電気屋の別のお兄さんの対応で金銭的に損にはならなかったからカモしれないけど、そんなに気が落ちることはなかった。
なぜならば、わたしにはこのセリフがいつもついているから。
「あのね、人間のやることの99パーセントは失敗なんだってさ。だから失敗するのは普通の状態なんだ。フランク・ザッパが言うには、失敗するのを死ぬほど恐れているのは、自分を最高に恰好いいと思っている自惚れた人間なんだって」伊坂幸太郎「ガソリン生活」
これは、かわいい緑のデミオ(車)のセリフ。
向かう所敵なし、な自分になれる素敵なセリフ。
こんなの気休め?
いやいや、世の中は考え方次第でハッピーにもアンハッピーにもなれるんだから、どうせならちょっと楽しくいってみましょう。
あのイギリスのドラマの女の子は、もう一つの人生を体験して幸せだったのだろうか。
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停滞する、ということ
時々、あれもこれも気になって手を出して、どれも中途半端になってしまうことがある。
イラストを鉛筆で描いたり、水彩で描いたり、アクリルで描いたり、デジタルで描いたり、また鉛筆で描いたり……。
はたまた、言葉を連ねたり、長い文章、短い文章を書いたりする。
でも、どれも安定しない。
安定しないのが安定しているちょっとヘンな状態。
安定していないときは、たいてい自分が迷っているときだ。
それはSNSに惑わされていますね。
自分で自分に警告を出す。
何かが突き抜けている人は、口を揃えて「継続」することを説いている。
「けいぞく」
大変だよなぁ、それ。と思う。
大変と思うことはきっとあなたがしたいことじゃないんじゃない。
また、自分で自分に警告を出す。
というか、疑問。
自分の中でぐるぐる考えることは、いいときと悪いときがある。
考えている間にもまわりは着々と日々の生活を生きていて、生産するものをしっかりと生産していて、前に進んでいる
…という現実と幻想がぐわっと押し寄せたら、もう、そこでストップをかける。
それより、とりあえずいま、自分がやりたいことを今日もこうしてやっていく。それが「けいぞく」なのよ。
電子機器のなかった中学生のころのわたしの感覚が恋しい。
なーんにも知らなくて、のんきにすきな漫画のキャラクターをただ描いている日々。
でも、いまあの頃に戻りたいなんて思わない。
だって、今戻っても数学は赤点だから……
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