2019年舞台新国立劇場「かもめ」観劇レポと考察
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こんにちは、舞台好きデザイラストレーターのいかわ(@mei_le20)です。
とても好きな作品であるチェーホフの「かもめ」を観劇に行ってきました。
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新国立劇場 小劇場
2019「かもめ」
作:アントン・チェーホフ
英語台本:トム・ストッパード
翻訳:小川絵梨子
演出:鈴木裕美
全キャストフルオーディション企画
パンフレット内で翻訳にあたられた小川絵梨子さんが、鈴木裕美さんとの対談で
「単なる『企画』ではなく、あくまでも作品のために(オーディションを)やる、ということを伝えていきたいですね。」
と語られていた。
「かもめ」のために集められた人々、と考えるとより作品に集中できるような気がした。
興行的なことはわからないが、少なからず「この人が出演しているから観る」ということをしているので、話題性や「スター」を起用する理由も納得できる。
また、キャストが決定される裏にどんな思惑が働いているのかなんて考えたことがなかったので「フルオーディション」が話題性となっていることに不思議な感じがした。
しかし、単純に上演される作品のために人を配置していく、という場合も健全というか、学生演劇のオーディションを思い出し、あって良いはずだなとも思えた。
脚本にただしい舞台
これまでに宝塚版と劇団地点の「かもめ」を見た。
いづれも、それぞれの「らしさ」「個性」があるので、省略や脚色のない「かもめ」は初見となるのだが、本当に、文庫で読んだ脚本の通り上演されるとこんな感じなのだなぁ、と「ただしいかもめ」を見た気がした。
快活なニーナ
印象的だった人物として、ニーナが挙げられる。
わたしの中のニーナは、純真で、かわいい野心のある線の細いお嬢さんというイメージだったので、とても楽しそうに賑やかに笑う姿は新鮮だった。
「静」というより「軽やかな動」という具合に。
コンスタンティンとアルカージナ
若い頃にちやほやされた母親は、いつまででも若くて(若いと思い込んでいて)子供にとってはちょっと扱いにくい、のかもしれない。
自尊心が高い者同士、反発してしまうさまが見ていておかしいような、悲しいような…
時にヒステリー、そうかと思えば過保護すぎる母親アルカージナを、朝海ひかるさんが演じられていた。
息子を見ているようで、現実の彼は見えていないような盲目さ、ちょっとケチなところはチャーミングに。
わたしの中のアルカージナが存在していて、びっくり!
びっくりだし、しっくり!
落ち着きの医師ドールン
ドールンもまた、わたしのイメージぴったりでリアルに存在していた。
天宮良さんという方が演じられており、低音に響く声が紳士らしさを際立たせていた。4幕ラストのあのセリフもごく自然で、しかし注目したくなるような様子を与えながら発せられていた。
「かもめ」は喜劇というけれど…
作者のチェーホフは、この作品を喜劇といっている。
2〜3幕はみんなそれぞれ抱える想いがあって、先走ってしまったり溢れる想いを処理しきれなくなり、ある意味「暴走」してしまう。
え、ちょっと待って、冷静になろ??
…と、肩をぽんと叩いてあげたくなる。
各々の想いは、すれ違ってちぐはぐな物語にもみえる。
その洋服のボタンを掛け違えたかのような違和感をわかりやすく示してくださっていて、「ここ、ちょっと面白いでしょう?」と提示してくれているような雰囲気が良かった。
文庫で読んでいた時に感じたおかしさの答合わせをしているようで、安心した。
でも、やっぱり
4幕はとても切ない。
天気も悪く、照明も薄暗でいかにも「これからちょっと良くないこと起こりますよ…」といわれているような感じがする。
しかも、あんなにキラキラしていたニーナが疲れ果てていて、泣いているんだもの…。彼女は現実をしっかり捉えるようになっていて、楽しかったあの頃、女優を夢見たあの頃を懐かしそうに、遠い過去として振り返る。
それを、絶望した表情で見守るコンスタンティン。
一人取り残されてしまったかのように佇む彼と、トリゴーリンの存在を気にする彼女は、やっぱり最後まですれ違っていて、悲しさが助長される。
銃声の後、ラストのドールンのセリフが近づくにつれ、どんな魅せ方をするのかと息をのんで、その時を待った。
どんどん伏線が回収されていく小説を読んでいるときの感覚と似ている。
そわそわと待ち受けていたラストは、球体の何かを転がっていかないようにそっと机に置いていくようなさり気なさで終わった。
あっけないとは違う、これもただしい終わり方、のような…
コンスタンティンは死んだのか…?
舞台外で銃声が響き、「コンスタンティンの死」は表現されている。
ほんとうに死んでしまったのかはわからないが、岩波文庫の解説で
「後期のチェーホフ劇の特徴だが、事件は舞台外で起こり、事件の痕跡はなんら舞台から伝えられない」
と、訳者の浦 雅春さんがおっしゃていた。
これははるか昔上演されていたギリシャ悲劇と重なるところがある。
ギリシャ悲劇でも、人の死や不幸はいつも舞台外で起こる。
舞台は神聖な場所であるので、女性も立つことが許されなかったし、不幸なことを舞台上では暗黙の了解で避けていたそうだ。
ギリシャ悲劇とチェーホフの相関関係は、専門ではないので分からないが「想像力」が試されているのか、人の「想像力」を信じているからこそチェーホフはこんな結末にしたのか、深く考えてみたくなるテーマだ。
(ロビー販売されていた集英社文庫版はどうかわからないが、↑の岩波版はチェーホフの生い立ちやこの作品自体のことなど、解説が充実しているのでおすすめです。)
さいごに
今回座っていた座席が後方だったので、舞台がある意味箱のように感じられ、囲われた建物の中の人々たちという視点で見ることができたからこそ、
これはフィクション・虚構であるという見方がよりできたのでは、と思う。
また、観客席の前方には、床に人工芝生が敷き詰められており、舞台の世界が現実のわたしたちにまで迫っていて、境界があいまいになっているところもよかった。
かもめ (集英社文庫) [ アントーン・パーヴロヴィチ・チェーホフ ]
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